「古典で旅する茶の湯800年史」

現代語でさらりと読む茶の古典シリーズに区切りをつけ、今回は

歴史上の人物たちがガイド役
「古典で旅する茶の湯800年史」竹本千鶴著

を紐解きました。

 

臨済宗の開祖栄西が中国留学から、密教の教えと茶の苗木や種を持って日本に戻ってからおおよそ800年が経ちました。著者は、それからの茶の湯800年の歴史を、次の二点を意識して執筆したそうです。

  • 古典は決して難しいものではないこと
  • 茶道のイロハを知らなくとも、茶の湯を身近に感じてもらえること

 

 

関連人物がガイド役で登場するページもあり、楽しく読ませていただきました。この本の構成は次のようになっており、各章にいくつかの逸話を取り上げています。

第一章 鎌倉・室町時代(第1話~第6話)

第二章 戦国時代(第7話~第12話)

第三章 小田信長の時代(第13話~第26話)

第四章 豊臣秀吉の時代(第27話~第36話)

第五章 伝承の中の利休(第37話~第42話)

第六章 江戸時代から近代(第43話~第46話)

 

私が覚えておきたい印象に残った逸話をいくつかピックアップしておくことにします。引用したところはこの文字色で表します。

 

 

第7話 『松屋会記』武野紹鷗よりのお招き

松屋久重の祖父が武野紹鷗から4月3日の茶会に招かれ、友人と堺に出向いたそうです。前日の宵のうちに使者が来て、「波(玉澗筆「波の絵」)」と松嶋(葉茶壺の名物)のどちらかを飾りますが、お好みは?」ときかれたが、二人の意見が割れたので「ご意向のままで」と答えた。果たして当日の茶会では初座に波、後座に松嶋が飾られた。

当時は博物館も美術館もなかったので、名物道具は所持者が見せてくれなければ想像するだけしかなかった時代。茶会は名物が見られる絶好の機会でした。もし客二人の意見が同じだったら、波と松嶋どちらか一方しか見ることができなかったはずですから、二人の意見が分かれたことは幸運でした。

それよりも驚いたことは、彼らの翌日からの行動です。

4日は津田宗達の会で牧谿筆「舟子絵(せんすえ)」

5日は満田常庵(みつだじょうあん)の会で楊貴妃のうがい茶碗こと青磁の名碗「坤寧殿茶碗(こんねいでんちゃわん)」

6日は油屋浄言の会で「柑子口柄杓立(こうじぐちひしゃくたて)」

7日は薩摩屋宗折の会で「珠光茶碗」

8日は妙印道安の会で「立布袋香合」

9日は北向道陳の会で牧谿筆「煙寺晩鐘」と葉茶壺「松花」

と、まるまる一週間毎日茶会の客となり名物三昧をしたことでした。なんという閑人だこと。一度にそんなに沢山の名物を拝見して私だったら消化不良になってしまいます。

 

 

第11話 戦国時代のタイムカプセル『烏鼠集(うそしゅう)』

烏鼠集は執筆者・編集者ともに不明で、内容は千利休以前の茶の湯のありようが記されています。

- 座り方ですが、客が貴人であれば終始蹲り(うずくまり)の姿勢で茶を点てます。客が亭主と同じ身分なら、安座して(あぐらのこと)点前します。あぐらは正式な座り方でした

- 茶会での基本は濃茶で、薄茶は時と場合によって出されました

- 茶銘はなく、抹茶は品質によって呼び分けられていました。極無上→別儀(べちぎ)→無上→揃(そそり)→砕(くだけ)→簸屑(ひくつ)

- 濃茶の分量 別儀は茶杓に7杓、無上は5杓 ただし客が一段の貴人の場合は好みを尋ね濃さを加減した

- 当時はすべて各服点

NHK大河ドラマ麒麟がくる」のあるシーンで、今井宗久があぐらで点前していたことを思い出しました。濃茶は一人分に5~7杓も使用したとありますが、想像するだけで胃が痛くなりそうです。

 

 

第18話 白むくげの人・松井友閑

私は松井友閑という人物を知りませんでしたが、この人物は信長にとっては懐刀という存在で、信長に舞を教えたのもこの人物ですし、一流の茶人でもあり、信長の名物を調達したり管理、茶会の道具組み、茶頭と大活躍でした。本能寺の変の後秀吉の時代になり、秀吉が大坂城で茶会を開き、廻り花をしたときに松井友閑は白ムクゲを生けた。

亡き主君を想い、白ムクゲを選んだのでしょうか。この時代にも廻り花が行われていたことにも驚きました。

 

 

第20話 側近が語る織田信長

信長が名物を集め出したのは、初の上洛から10年後。松井友閑と丹羽長秀が名物を一覧できるよう会場の設営、出品者との交渉をした。結局「初花肩衝」「富士茄子」「法王寺竹茶杓」「蕪無(かぶらなし青磁の花入)」「玉澗筆 雁の絵」の5点を購入

名物狩りなどと揶揄されるような強制的な一斉蒐集はしていない。自らの物差しに基づき、お好みの名物を入念に吟味して、しかるべき代価を支払って手に入れた。最終的に200点近くのコレクションで、管理は松井友閑

 

 

第35話 『島津家文書』回し飲みが生まれたわけ

島津義弘がやっと秀吉に降伏した翌年、臣下の礼で大坂城に出向いた。2日後秀吉が茶会を開き義弘も招待された。千宗易の点前に同席したのは秀吉・義弘・伊集院忠棟・細川幽斎

秀吉の指示により義弘だけが一服もらっていますが、幽斎と伊集院と宗易はすい茶すなわち回し飲みでした。時短を考慮したのでしょうが、最大の目的は当主と家臣の身分に応じて格差をつけるところにあったのでしょう。

秀吉は、自身が設けた茶席でも点前は人に任せ、自身は客座に一緒に座ったそうです。この時は千宗易が点前し、その後回し飲みに加わっています。こんなことも秀吉が客座にいて指示を出したのでしょう。

 

 

第39話 さびの茶人・千宗旦

宗旦は祖父利休の茶の継承に生涯を捧げましたが、時には生前の利休の言動を手紙に記すこともありました。利休の嫌ったことのひとつ

「道具の由来を知る」行為があり、それは「数寄ではない」と伝えています。名物や由緒ある道具に執着するのはこの世界では珍しいことではないですが、そのような心持は利休の茶とは相容れないということなのでしょう。

また、炉と風炉について利休の考えでは、その日の気温によって炉・風炉柔軟に対応しても良い、いやするべきだということです

 

 

第44話 松平不昧からのメッセージ

茶の湯へ心寄せる方へ

茶の湯とはいかにあるべきか。たとえるなら稲葉における朝露であり、また枯れ野に咲く撫子のようなもの。そうありたい、と私は思う。この点をよく理解したならば、真に茶の湯の道を歩むことができよう。

茶会での心得をひとつ。客の粗相は亭主の粗相。亭主の粗相は客の粗相と思いなさい。この点、深く心に刻むこと。客の心になって亭主を務めなさい。亭主の心になって客になりなさい。‥略‥

不昧からのメッセージ私の心にストンと落ちました。

「山上宗二記」

現代語でさらりと読む茶の古典シリーズから
山上宗二記」  竹内順一著

山上宗二記(やまのうえそうじき)」原本は、利休様の弟子山上宗二(1544~1590)が記しました。私はこの人物に少し興味がありましたので、人となりを調べてみました。以下は裏千家道教科「茶人伝」から。

山上宗二は堺の町人で、山上に住んでいたので、山上を姓とした。早くから利休に茶の湯を学び、25歳の頃には津田宗及一人を招いて茶事を催している。これを評価され、はじめ利休の推挙で秀吉に仕えた後、前田利家、また小田原の北条氏に食客として寄住したこともあった。毒舌家で秀吉にも直言をしてはばからなかったため、1590年小田原の陣中秀吉の命によって耳をそがれ、鼻をそがれて命を落とした。

山上宗二という人は自分を貫き通す実直な性格だったのですね。弟子が斬首された時の利休様はどれだけ辛かったでしょうか。そして翌年利休様も秀吉から死を賜わることになるのですが。

 

 

本の内容は、言ってみれば利休時代の名物道具212点の所在リストで、1588年にまとめられました。名物リストは、桃山時代に頂点を迎えた「侘び茶」の道具観で、宗二の目から見たいわゆる「今の時代」の流行の最先端を行く名物情報です。それを裏付けることとして、「当世」という語が30回も登場します。

 

茶道具は宝物としての価値を有する「名物」と「侘びを立てる茶の湯者」にのみ価値のある「数寄道具」とに峻別する名物観を貫き、また昔から知られた古い名物でも厳然と否定し、「当世」意識に基づき流行の先端を行く茶道具を書き上げました。数ある名物記の中では最も厳しい評価基準が貫かれ、茶の湯者のため、特に初心者のために編纂した書です。

 

 

目利きと目聞(めききとめきき)

目利きはよく使われる語で、美術品を鑑定すること。

それに対して目聞は、真贋の判定ではなく、その道具が茶の湯に適するか否かを
- 形(なり)すなわち形態
- 比(ころ)すなわち大きさ
- 様子(ようす)すなわち全体の印象

という3つの観点から判断すること

山上宗二記とは「目聞」のノウハウを伝える書です。なぜ名物になるのか(反対にならないのか)という理由や根拠を示した名物記は「山上宗二記」のみだそうです

 

 

茶道具リストは「大壺」からはじまり「侘花入」に至る30種 総計212点の名物道具につき、どこの誰が所持しているかという所在情報を箇条書きで列挙し、更に道具観を述べています。

道具観が分かるところを第5章「茶碗の事」から少しだけ抜き書きしてみましょう。

かつてよく使われ名物であった唐茶碗は、すっかり流行遅れになったのである。今流行の最先端の茶碗は、一つは高麗茶碗の類であり、二つは今焼茶碗(今の楽茶碗)、三つは瀬戸茶碗(今の美濃焼系の茶碗か)、この三種に限るといってよい

第22章「墨蹟の次第」からも少し

名物墨蹟の選別の要諦をまとめてみれば、第一に祖師すなわち誰が書いたかである

第二は語すなわち書かれた内容である。その条件としては「様子」がよかったならば数寄道具となるし、同時に評価額も高価である

 

 

リストはすべて文字だけの記載で、

○○の見所などについては文字に書いて示すことはできないので、別途口伝にてお教えしましょう

という表現がいたるところにでてきます

 

利休様は、自分の道具観をまとめた「名物集」を文字に残しませんでしたが、弟子である宗二が書いたこの「山上宗二記」が結果として利休様の道具観を体現する役割を果たしました

「茶話指月集」

現代語でさらりと読む茶の古典シリーズ
「茶話指月集」谷端昭夫著

 

 

「茶話指月集(ちゃわしげつしゅう)」ちなみに指月は行くべき道しるべという意味です。

原本は、宗旦の高弟である藤村庸軒(ふじむらようけん1603~1699)が記述しました。

本の内容は、前回の「江岑夏書」同様、宗旦からの聞き書きです。したがって内容はだいぶかぶっています。両書の大きな違いは出版にあります。

「茶話指月集」は藤村庸軒が亡くなって2年後、娘婿である久須見疎安(くすみそあん)が付記をつけて出版しました。逸話集としては最も早く版行されました。

一方、前回の「江岑夏書」は、近代(昭和17年)にいたって表千家13代即中斎宗左によって「茶道雑誌」の前身「わび」誌上に紹介されるまでおよそ300年にわたって公刊されませんでした。これは前回書いたように、跡継ぎが幼かったために書き残しておくという意味合いが濃かったからと考えられます。

先程も書いたとおり、内容はだいぶかぶっていますので、かぶっていないところで私が印象に残ったところを一つだけ記録しておきます。

 

利休茶湯に出す道具は栗に芥子(くりにからし、つまり甘い物に辛い物)を混ぜたように組み合わせるのが巧者とあります

- 重々しい道具にはさびて軽い物

- 大きい物には小さい物

- 肩衝の茶入を出したときは薄茶は棗

- 丸壺の時は中次

- 雲龍釜には平たい盥(たらい)の水指

- 大風炉の敷板には小板

 

したがって大海茶入に平棗はペケですね

江岑夏書

現代語でさらりと読む茶の古典シリーズ
「江岑夏書」谷端昭夫著

 

 「江岑夏書(こうしんげがき)」原本は、宗旦の三男である江岑こと千宗左(1613~1672)が記述しました。江岑は号です。書き上げたのが1663年、タイトルになっている夏書の謂れです。

  江岑宗左は33歳の時宗旦から家督を譲られて不審庵(表千家)を継ぎました。利休様から数えて四代目になります。そして50歳の時この本を書き上げました。

  本の内容は、前半は利休道具の成り立ちや所持者、後半は点茶に関する関連事項で、大部分が宗旦から聞いた話を書き留めたものだそうです。目的について江岑は次のように記述しています。引用したところはこの文字色で表します

 

私はこの書付は後世に残すためではなく、自分の慰みに思い出す事どもを書いただけのものです。特に書く必要があって書いたのではありません。父宗旦が81歳まで生きていて、茶湯について細かく尋ねましたのでよく覚えているのです

 

とありますが、ちょうどその頃江岑宗左は、跡継ぎを久田家より養子として迎えています。将来五代宗左となる養子のその時の年齢が12~13歳でであることを考え合わせると、茶湯伝承のため聞き書きを残すことにしたのではないか。また、利休様が亡くなって70年以上になり、茶の湯の世界に、それまでの「不立文字」を中心とした伝授では理解を得られない時期が既に到来し始めていたのかもしれないと、筆者の谷端氏は述べています。

私が印象に残ったところを二つだけ記録しておきます。

 

一つ目

茶湯は20年以上経験しなければなりません。極(良質の抹茶)を2~3斤(1.5~2.2.kg)ほど飲まなければわからないと昔から言い伝えていますのに、昨今は昨日今日に茶湯を始めたばかりの人が自慢げにしています

 

濃茶一人分を3.75gとするとなんと400~586碗の計算です。月に2回稽古するとして年24碗。400~586椀に到達するには16~24年。納得です。

 

二つ目

ふくさぎぬ(帛紗)は、利休の時分は小さくて、角を腰につけました。利休が、小田原の陣に出かける時、妻の宗恩が大きい帛紗を縫って薬包みとして渡しました。利休はこれを見て
「一段と恰好がいい。これから帛紗はこのようにしよう」
と申されました。大きさは畳目で17目と19目です

 

現在の帛紗は宗恩さんの考案だったのですね。奥伝の中に裏千家の古帛紗(10目と11目)で道具を清める点前がありますが、利休様の小さい帛紗とはここに残っているのでしょうか。