茶窓閒話

コロナ禍の中お家時間が長くなり、読書などしています。図書館の蔵書の中から小説を読んだりもしますが、茶道書もときどき借ります。私は茶道が今の形になるまでの過程にとても興味があり、今回「現代語でさらりと読む茶の古典シリーズ」を見つけ読み始めました。

長らくブログから離れていましたが、茶道に関する本の読書メモを記してみることにしました。

 

 

今日は「現代語でさらりと読む茶の古典シリーズから茶窓閒話」筒井紘一著

「茶窓閒話(ちゃそうかんわ)」が書かれた背景

利休様が亡くなったのは1591年。百年忌のときもそうだったように、二百年忌を迎えた寛政年間(1789~1801)の茶道界に、再び大きな繁栄の時代が訪れました。茶道人口の増大に合わせた千家七事式の制定、家元制度の成立などによって多くの茶書が出版されるようになりましたが、『数寄(すき)雑談(ぞうだん)』の書の版行もそれに応えるものでありました。「茶窓閒話(ちゃそうかんわ)」はその中の一冊で、近松茂矩という人が書かれたものです。

それを現代語でさらりと読む茶の古典シリーズの一冊として現代の茶道研究家の第一人者のお一人でいらっしゃる筒井紘一(つついひろいち)先生が纏められました。

ちなみに『数寄雑談(すきぞうだん)』とは、茶席の中で話してもよい話のこと。例えば、古くから伝承されてきた名物道具の評判話、茶会の話、稽古の席で師匠から聞いてきた茶の湯話です。

これに対する言葉は『世間雑談(せけんぞうだん)』これはいけません。いわゆる我が仏、隣の宝、婿舅、天下の戦、人の善し悪しといったところです。

 

130話ほどの雑談が納められたこの本の中から、ほんの一部ではありますが心に残ったもの残しておきたいものを書き抜いてみました。

 

◆濃茶の廻し飲み

昔の濃茶は必ず一人一服ずつ点てていました。すると間隔が開きすぎて時間がかかり、亭主も客も退屈するからというので、利休が吸茶(廻し飲み)にしたといいます。

◆薄茶の廻し飲み

京都の真如堂の住僧である東陽坊(利休の弟子)が、秀次(秀吉の甥)の家臣を客に迎えた折に始めました。それを利休が称美し、大服に点てることを「東陽に仕る」と言いました

◆炉

紹鷗の頃までは一尺五寸七分四方と大きすぎたので、紹鷗が一尺四寸四方に切り使い始めました

◆平蜘蛛釜

この釜には平蜘蛛が鋳付けられており、湯が沸き上がってくると、さながら蜘蛛が這いまわるように見えました

風炉先屏風

高さが2種類二尺四寸と一尺二寸の二つがあります。ちなみに真台子の幅は三尺二寸、高さは二尺二寸あります

◆盆点(三千家相伝科目のひとつです)

利休は瀬戸肩衝茶入を二度三度となく盆点に使用したとあります

◆利休居士の居士号

居士号を下さったのは正親町院 それは勅命によって茶道具を献上した褒賞でした

◆利休切腹後の屋敷

広間は高桐院の茶室に、表門は龍光院の門に、台所門は日蓮宗妙蓮寺へ

◆細川三斎へ譲られた利休の遺品

与次郎の阿弥陀堂釜、長次郎の「鉢開」、石灯籠

ちなみに石灯籠は三斎がどこに行くにも茶道役に持たせたほど大切に大切にしたそうです

◆長次郎七種の名前の由来

1.東陽坊(黒)東陽坊が所持 今は鴻池家蔵

2.臨済(黒)名前の由来は? 臨済は赤とされているが、ここには黒と記されている。いずれにしても存滅不明

3.木守(赤)利休が長次郎の茶碗を数個取り寄せ、門下の大名らに送ったが、これ一つは手元に残したので、柿の実一つを木守として取り残すことにたとえて「木守」と名づけたといわれる 武者小路千家

4.検校(けんぎょう)(赤)

検校とは盲僧官の最高位の名称。利休が皆と一緒に長次郎の茶碗を選んでいたときのこと。あとに一個残ったのを見て、このような良い茶碗を選び残すあなた方は検校のようですねと一笑。存滅不明

5.早船(赤)

茶会の時に利休がこの茶碗を大坂から早船で取り寄せたと語ったことからついた銘。畠山記念館蔵

6.大黒(おおぐろ)(黒)名前の由来は? 鴻池家蔵

7.鉢開(黒)記載なし

◆茶弁当

これは点前道具一式を仕込んだ携帯用の茶箱のこと。利休形は桐生地で掛子蓋がつく。宗旦好みは朱塗の一閑張り。信長公の時代までは、茶弁当というものがありませんでしたが、近江の安土に城を築いたときから茶弁当が始まりました