江岑夏書

現代語でさらりと読む茶の古典シリーズ
「江岑夏書」谷端昭夫著

 

 「江岑夏書(こうしんげがき)」原本は、宗旦の三男である江岑こと千宗左(1613~1672)が記述しました。江岑は号です。書き上げたのが1663年、タイトルになっている夏書の謂れです。

  江岑宗左は33歳の時宗旦から家督を譲られて不審庵(表千家)を継ぎました。利休様から数えて四代目になります。そして50歳の時この本を書き上げました。

  本の内容は、前半は利休道具の成り立ちや所持者、後半は点茶に関する関連事項で、大部分が宗旦から聞いた話を書き留めたものだそうです。目的について江岑は次のように記述しています。引用したところはこの文字色で表します

 

私はこの書付は後世に残すためではなく、自分の慰みに思い出す事どもを書いただけのものです。特に書く必要があって書いたのではありません。父宗旦が81歳まで生きていて、茶湯について細かく尋ねましたのでよく覚えているのです

 

とありますが、ちょうどその頃江岑宗左は、跡継ぎを久田家より養子として迎えています。将来五代宗左となる養子のその時の年齢が12~13歳でであることを考え合わせると、茶湯伝承のため聞き書きを残すことにしたのではないか。また、利休様が亡くなって70年以上になり、茶の湯の世界に、それまでの「不立文字」を中心とした伝授では理解を得られない時期が既に到来し始めていたのかもしれないと、筆者の谷端氏は述べています。

私が印象に残ったところを二つだけ記録しておきます。

 

一つ目

茶湯は20年以上経験しなければなりません。極(良質の抹茶)を2~3斤(1.5~2.2.kg)ほど飲まなければわからないと昔から言い伝えていますのに、昨今は昨日今日に茶湯を始めたばかりの人が自慢げにしています

 

濃茶一人分を3.75gとするとなんと400~586碗の計算です。月に2回稽古するとして年24碗。400~586椀に到達するには16~24年。納得です。

 

二つ目

ふくさぎぬ(帛紗)は、利休の時分は小さくて、角を腰につけました。利休が、小田原の陣に出かける時、妻の宗恩が大きい帛紗を縫って薬包みとして渡しました。利休はこれを見て
「一段と恰好がいい。これから帛紗はこのようにしよう」
と申されました。大きさは畳目で17目と19目です

 

現在の帛紗は宗恩さんの考案だったのですね。奥伝の中に裏千家の古帛紗(10目と11目)で道具を清める点前がありますが、利休様の小さい帛紗とはここに残っているのでしょうか。