2013年11月17日 鵬雲斎千玄室大宗匠講演会

今年卒寿になられた鵬雲斎千玄室大宗匠が横浜にお出ましになられました。
関東第三地区主催の「卒寿を祝う講演会」ご出席のためです。
会場になった聖光学院講堂には1500名の同門が集まりました。


宗匠はとても90歳というお歳には見えず、舞台を歩くお姿も、張りのあるお声も、お話の内容も素晴らしいものでした。
丸1時間立ち詰めでのお話の後、各支部から90歳に因んで90本のバラの花の贈呈がありました。
その花束を抱えられて、なんと私達客席の通路という通路を廻られ、笑顔で会釈をなさったのです。


講演の内容は、来月公開される直木賞受賞作「利休にたずねよ」(山本兼一作 小松江里子脚本)の裏話から始まり、利休がなぜ切腹しなければならなかったかについて歴史に詳しく踏み込んでのお話でした。


その中から私が特に印象に残った部分は、茶道とキリスト教の関係です。
これまで深く考えたことがなかったのです。


玄室大宗匠同志社大学プロテスタント系)のご出身で、その時の教えが現在に至るまでとても役に立っているとおっしゃいました。
宗匠はある時、カソリックの神父さんがミサをなさるのと同時進行で、お献茶なさったことがあるそうです。
お献茶では白い帛紗を使われるそうですが、大宗匠が白い帛紗で清めているときに、傍らでは神父さんが白いナプキンで清めていらっしゃったとか。
茶室の躙口はよく知られていますが、マタイ伝の中に「狭き門より入れ。滅にいたる門は大きく、その路は広く、之より入る者多し 。生命にいたる門は狭く、その路は細
く、之を見出すもの少し。」とあります。
躙口と狭き門、重なりますね。
茶室の庭を露地といいますが、マタイ伝の中にも訳語で露地という言葉が使われています。

私の俄か勉強によると
利休28歳の暮(1550年)、聖ザビエルがキリスト教をひろめるために堺の町にやって来ました。
聖ザビエルの面倒を見たのは、堺の富商であると同時に有数の茶人でもあった日比屋了珪(慶)という人だそうです。
利休も堺の商人ですから、ごく身近なところの話です。


利休がキリスト教信者だったという話はききませんが、利休七哲といわれる利休の直弟子達には切支丹が多いですね。
利休七哲蒲生氏郷細川忠興古田織部、芝山監物、瀬田掃部、高山右近牧村利貞
ある説では利休の妻や娘も信者だったとか。


ということは、利休は、堺において宣教師の行うミサの儀式を見る機会もあったでしょうから、自らの茶の湯にその所作を取り入れても不思議ではありません。
興味深い話ですね。

もうひとつ印象に残った部分があります。
「利休は秀吉に、不完全の美を訴えたかった、それは利休の辞世でわかります。」
と大宗匠がおっしゃいました。
私は利休様の遺訓の読み方すら知らないでやりすごしてきました。
反省をこめここに記します。

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利休遺訓

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人生七十 力囲希咄
じんせいしちじゅう りきいきとつ(力囲希咄:えい、えい、えい!)


這寶剣 祖佛共殺
わがこのほうけん そぶつともにころす(這:この)

堤る我得具足の一太刀
ひっさぐる わがえぐそくのひとたち(得具足:上手に使える武器)


今此時ぞ天に抛
いまこのときぞ てんになげうつ(抛:なげうつ ちなみに利休の斎号は抛筌斎ほうせんさい 筌:魚をとる道具)



人生ここに七十年、えい、えい、えい!(忽然と大悟した時に発する声)。
宝剣で祖仏もわれも、ともに断ち切ろうぞ(まさに、活殺自在の心境)。
私はみずから得具足(上手に使える武器)の一本の太刀を引っさげて、
いま、まさに我が身を天に抛つのだ(いまや、 迷いの雲も晴れた、すっきりした心境)。

[中公文庫 利休の死;小松茂美中央公論社)]-------------------------------------------------