「故郷忘じがたく候」 司馬遼太郎著 1969年刊

 薩摩焼の窯元のひとつに沈壽官窯があります。作家司馬遼太郎は1968年、先代つまり十四代沈壽官(1926-2019)に取材、その後小説「故郷忘じがたく候」を発表。以前から読んでみたいと思っていたのですが半世紀を経た今やっと実現しました。

 

 薩摩焼にはいくつかの系統がありますが、沈壽官窯は「苗代川(なえしろがわ)系」といわれます。その源はというと歴史を遡ること430年前、利休様が自刃なさった翌年の秀吉の朝鮮出兵にあります。

 

 全国統一を成し遂げた秀吉の野望は中国(明)に向けられたのです。その足掛かりとして朝鮮に攻め込みました。それが文禄の役(1592年) 多くの犠牲者をだし食料も底をついたため一旦休戦。その後、講話に持ち込もうとしましたが決裂し、再び大軍を送り込みました。それが慶長の役(1597年)苦戦の最中に秀吉が急死し、全軍撤退となったわけですが、その時に朝鮮の多くの陶工達を捕獲し連れ帰ったのです。沈壽官の祖先もその一人でした。

 

 当時日本の貴族、武将、富商の間で茶道が隆盛し、たとえば韓人が日常の飯盛茶碗にしている程度のものが日本に入り、千金の価をよんでいた時代だったのです。彼らを捕獲し連れ帰った意図は明らかですが、陶工達がいつどのようにして日本に連れてこられたか正確な記録は残っていないようです。

 わずかな資料から、沈壽官の祖先達は串木野島平という地に上陸し、そこから東に二里ばかりのところに位置する苗代川(川はないのにどうしてこの地名になったのでしょう)に移ったそうです。そこは彼らにとって涙が出るほど戻りたい故郷 朝鮮南原城(なもん)に似ていたからです。苗代川は現在は美山という地名になったそうですが、その地には沈氏のほかに朴氏、金氏、鄭氏、李氏が居住、370年前(司馬遼太郎が取材した年を基点に)に捕えられ、拉致されて薩摩に連れて来られ、帰化せしめられて以来今日に至るまで姓名を変えていないと記されています。

 言葉も、明治までは一村ことごとく韓語を使っていましたが、維新後は祭祀の歌謡や窯仕事にともなう技術語だけに韓語が残っているそうです。(これは彼らの意志だったのかもしれませんが、別の資料によりますと、改姓を許さず言葉も韓語を使わせたのは藩独特の統治システムだったとの記述もあります)

 

 薩摩藩島津義弘が彼らを鹿児島に迎えようとしても、陶工達は
「苗代川の丘にのぼれば東シナ海がみえ、その海の水路はるか彼方に朝鮮の山河が横たわっている。われわれは天運なく朝鮮の先祖の墓を捨ててこの国に連れられてきたが、しかしあの丘に立ち祭壇を設け先祖の祀りをすれば遥かに朝鮮の山河が感応し、かの国に眠る祖先の霊をなぐさめることができる」
と涙を浮かべ言うのでした。これがこの本のタイトルになったのです。

 

 陶工達は苗代川の地を安堵され、祖国を偲びながらも、その技術を活きる糧として生きていかねばなりませんでした。彼らは活発な作陶活動を始め、やがて素晴らしい白薩摩を焼き、藩ひいては日本国に多大な貢献をしてくれたのです。

源流茶話

現代語でさらりと読む茶の古典シリーズから「源流茶話」岩田明子著

「源流茶話」が書かれた背景

源流茶話の著作年ははっきりはしませんが、元禄時代(1688~1704)末期か、それから30年の間に書かれたことがわかっています。

著者である藪内家五代家元 不住斎竹心紹智は、この時代の茶風を軽薄の茶風と表現し、利休の大成した茶道を模範とし、そこに普遍的価値をおき、家元としての倫理観を貫き通しました。

この書の著述の意図は利休の正風流(しょうふうりゅう)が異風流に妨げられ、後世に伝わらないことを案じたところにあります。

【上巻】は、茶の伝来・茶湯の始まり・利休が大成した茶道・茶席の法・道具についてのあらまし

【中巻】は、近頃見聞きしたことについての問答

【下巻】は、足利義政・珠光・紹鷗・利休の茶系の略伝とその後に続く茶人の言行
という構成です。

それを現代語でさらりと読む茶の古典シリーズの一冊として、岩田明子氏が纏められました。

 

上巻】の道具についてのあらましのところで、私が以前から気になっていたことが2点書かれていましたので記録しておきます。引用したところはこの文字色で表します。

まず一つ目は『茶通箱』についてです。裏千家の履修科目の中に四ケ伝がありますが、その中の一つが茶通箱という点前です。これは二種の濃茶を同時に同一の客に呈する場合で、不意に濃茶が他より到来した時、自分の用意した茶は勿論この到来した茶も呈したいという場合に行う点前とされており、茶通箱という桐生地でできた箱に茶入と大津袋に入れた棗を入れて点前します。箱自体にはなんの装飾もなく、ただ精巧に作られた桐の箱なのですが、この箱を扱う手に特徴があります。どうしてこのような手の捌きになったのかというところから、茶通箱とはいったいどういう経緯で作られたものなのだろうと思っていたのです。

不住斎竹心紹智の記述は以下のようになっています。

 

現在では、葉茶壺の多くは銀錫になり、だれもが所持していますが、昔は唐物で貴重なものでした。侘人には手の届かないもので、壺がない人は、壺を持っている人に茶箱を通して(渡して)茶をもらっていました。それゆえ茶通箱といいます。茶通箱に大小の茶桶(ちゃおけ)を取り合わせて仕組み、大津袋をかけて両種点にしたのは利休の発案によるものです。

 

だれもが所持している銀錫の葉茶壺とありますが、抹茶の世界ではあまりみかけません。お煎茶の方ではみかけたことがありますが。ともあれ茶通箱は葉茶壺の代替品だったのですね。不意に濃茶が他から到来したときも茶通箱に入って届いたのかもしれません。

 

二つ目は、『香合』のところに記されていたのですが、

不住斎竹心紹智の記述は以下のようになっています。

 

昔は、香合は、唐物の堆朱・堆紅・堆烏(堆黒)・堆漆・沈金・青貝など、和物では、時代切り金・梨地・高蒔絵・研ぎ出しなどがありました。しかし侘人にはできない取り合わせですので、利休は備前信楽・楽・志野焼の香合をも用いられました。

 

ここで利休が用いた備前信楽・楽は納得ですが、志野焼も?

利休様が自刃した1591年(天正19年もう翌年は改元で文禄になりますが)天正年間にはまだ志野焼はなかったと記憶していたのですが、すでにあったということになります。

 

【中巻】近頃見聞きしたことについての問答のところでは、そのころ出回った茶書を批評しています

 

私はかつて、「茶教方鑑」や「和漢茶譜」などという茶書を見ましたが、今の世の軽薄な茶風をただし、茶道の衰えを立ち直らせるものはありませんでした。陸羽の「茶経大全」「茶録」などより抜粋したむだ言で、中国の製茶の法、器具の種類、詩賦は優れていますが、漢文のため誰もがたやすく読めるものではなく、概して見るほどでもありません。このほか、古い草子の「草人木」「古織伝」は初心者のために手を差し伸べたものですので、茶道の究極の境地までは説いていません。

ひところ、藤村庸軒が昔の人の言行を「茶話指月集」と題して、あれこれ古実を集め書きのせましたが、茶の深奥に至らず、出版するとはおろかなことではないでしょうか・・・・・・

 

と手厳しい批評です。

 

【下巻】は、足利義政・珠光・紹鷗・利休の茶系の略伝とその後に続く茶人の言行

この巻の中では珠光が一番弟子である古市播磨に授けた文が一番心に残りました。いわゆる「心の文」と呼ばれるもので、これを現代語でさらりと読めることは大変ありがたいことです。

 

この道において最もよくないことは、我慢我執の心(おごり高ぶる心と執着する心)をもつことです。長年稽古を積んできた巧者を妬んだり、初心者を見下すようなことは大変よくないことです。巧者には近づいて一言でも教えを乞い、謙虚な態度で自分の未熟さを反省し、また努めて初心者が育つように心掛けるべきです。(中略)

また、最近、茶の修業が熟していない初心者が「冷え枯れる」といって、備前信楽などの焼物を用いて、境涯に至っていないにもかかわらず、冷え枯れているかのようによそおい、ひとりよがりな茶湯をしていますが、これは言語道断なことです。(中略)

とはいえ、唐物などよい道具を持てない人は、道具に拘泥してはいけません。手取釜くらいしか持てない場合でも、自分が未熟であることを嘆くという心をもって、巧者に教えを乞い、素直で謙虚な気持ちでひたすら茶湯に向かうことが肝要です。

ただ、我慢我執はよくないことですが、我慢の心から出る我もなければならず、我慢がなくても成立しません。銘道のいましめに「心の師とはなれ、心を師とせざれ」と古人も言われていることです。現在(いま)の自己に安住することなく、より高くより深い境涯に向かって自己を超越していくように。

 

(中略)とあるところは、この「源流茶話」にはもともと記載されていないそうです。竹心が参考にした「心の文」が抜けていたのかどうかは不明だそうです。

冷え枯れているかのようによそおい、ひとりよがりな茶湯とありますが、現代においてもやはり唐物などの名物道具の稽古や台子の稽古は茶の湯の原点でもありますから、おろそかにせず真摯にとりくまねばと思った次第です。

道具に拘泥することなく、巧者に教えを乞い、素直で謙虚な気持ちでひたすら茶湯に向かうことが肝要というところは大変共感できるところで、道具を持てなくても知恵と工夫で補い精進を続けること、それが人を成長させ強くしてくれると信じます。

 

下巻の最後に中国の賢人たちが茶を詠じた詩がいくつか記載されています。そのうちのひとつ唐の蘆同という人が、新茶を送ってくれた友人に宛てた礼状の一部を書き写しておきましょう。喜びが爆発している様子がなんとも可愛らしいからです

 

(略)仁風(めぐみの風)により茶の木は美しいつぼみをつけ、春に先立ち黄金の芽を吹く。その新芽を摘み、焙りすばやく包む。このようにして出来た茶の素晴らしさは最高だが、慎ましやかな茶である。植物の中で最もすばらしいゆえに、皇帝が召し上がるのがふさわしく、その残りも王公たちにこそふさわしい。それがどうしたことか、山中で暮らす私のもとにその茶が届いた。柴門を閉ざして俗客を拒む。黒い絹の帽子で頭を包み心身を整え、その茶を自ら煎じて茶をいただく。碧雲のような湯気は風を呼んで立ち上り、白い花のような泡が光りながら、茶碗の表面に浮かぶ。

一碗飲めば喉吻の乾きがうるおい、二碗飲めば孤独から解放され悩みがなくなる。三碗飲めば精神が活発になり頭の回転がよくなる、四碗飲めば軽く汗が出て不平不満が毛穴から出て行く。五碗飲めば肌から骨まで清らかになり、六碗飲めば仙霊に通じる。七碗はもう飲めない。ただ脇の下から清風が生じるようだ。(略)

 

 

茶窓閒話

コロナ禍の中お家時間が長くなり、読書などしています。図書館の蔵書の中から小説を読んだりもしますが、茶道書もときどき借ります。私は茶道が今の形になるまでの過程にとても興味があり、今回「現代語でさらりと読む茶の古典シリーズ」を見つけ読み始めました。

長らくブログから離れていましたが、茶道に関する本の読書メモを記してみることにしました。

 

 

今日は「現代語でさらりと読む茶の古典シリーズから茶窓閒話」筒井紘一著

「茶窓閒話(ちゃそうかんわ)」が書かれた背景

利休様が亡くなったのは1591年。百年忌のときもそうだったように、二百年忌を迎えた寛政年間(1789~1801)の茶道界に、再び大きな繁栄の時代が訪れました。茶道人口の増大に合わせた千家七事式の制定、家元制度の成立などによって多くの茶書が出版されるようになりましたが、『数寄(すき)雑談(ぞうだん)』の書の版行もそれに応えるものでありました。「茶窓閒話(ちゃそうかんわ)」はその中の一冊で、近松茂矩という人が書かれたものです。

それを現代語でさらりと読む茶の古典シリーズの一冊として現代の茶道研究家の第一人者のお一人でいらっしゃる筒井紘一(つついひろいち)先生が纏められました。

ちなみに『数寄雑談(すきぞうだん)』とは、茶席の中で話してもよい話のこと。例えば、古くから伝承されてきた名物道具の評判話、茶会の話、稽古の席で師匠から聞いてきた茶の湯話です。

これに対する言葉は『世間雑談(せけんぞうだん)』これはいけません。いわゆる我が仏、隣の宝、婿舅、天下の戦、人の善し悪しといったところです。

 

130話ほどの雑談が納められたこの本の中から、ほんの一部ではありますが心に残ったもの残しておきたいものを書き抜いてみました。

 

◆濃茶の廻し飲み

昔の濃茶は必ず一人一服ずつ点てていました。すると間隔が開きすぎて時間がかかり、亭主も客も退屈するからというので、利休が吸茶(廻し飲み)にしたといいます。

◆薄茶の廻し飲み

京都の真如堂の住僧である東陽坊(利休の弟子)が、秀次(秀吉の甥)の家臣を客に迎えた折に始めました。それを利休が称美し、大服に点てることを「東陽に仕る」と言いました

◆炉

紹鷗の頃までは一尺五寸七分四方と大きすぎたので、紹鷗が一尺四寸四方に切り使い始めました

◆平蜘蛛釜

この釜には平蜘蛛が鋳付けられており、湯が沸き上がってくると、さながら蜘蛛が這いまわるように見えました

風炉先屏風

高さが2種類二尺四寸と一尺二寸の二つがあります。ちなみに真台子の幅は三尺二寸、高さは二尺二寸あります

◆盆点(三千家相伝科目のひとつです)

利休は瀬戸肩衝茶入を二度三度となく盆点に使用したとあります

◆利休居士の居士号

居士号を下さったのは正親町院 それは勅命によって茶道具を献上した褒賞でした

◆利休切腹後の屋敷

広間は高桐院の茶室に、表門は龍光院の門に、台所門は日蓮宗妙蓮寺へ

◆細川三斎へ譲られた利休の遺品

与次郎の阿弥陀堂釜、長次郎の「鉢開」、石灯籠

ちなみに石灯籠は三斎がどこに行くにも茶道役に持たせたほど大切に大切にしたそうです

◆長次郎七種の名前の由来

1.東陽坊(黒)東陽坊が所持 今は鴻池家蔵

2.臨済(黒)名前の由来は? 臨済は赤とされているが、ここには黒と記されている。いずれにしても存滅不明

3.木守(赤)利休が長次郎の茶碗を数個取り寄せ、門下の大名らに送ったが、これ一つは手元に残したので、柿の実一つを木守として取り残すことにたとえて「木守」と名づけたといわれる 武者小路千家

4.検校(けんぎょう)(赤)

検校とは盲僧官の最高位の名称。利休が皆と一緒に長次郎の茶碗を選んでいたときのこと。あとに一個残ったのを見て、このような良い茶碗を選び残すあなた方は検校のようですねと一笑。存滅不明

5.早船(赤)

茶会の時に利休がこの茶碗を大坂から早船で取り寄せたと語ったことからついた銘。畠山記念館蔵

6.大黒(おおぐろ)(黒)名前の由来は? 鴻池家蔵

7.鉢開(黒)記載なし

◆茶弁当

これは点前道具一式を仕込んだ携帯用の茶箱のこと。利休形は桐生地で掛子蓋がつく。宗旦好みは朱塗の一閑張り。信長公の時代までは、茶弁当というものがありませんでしたが、近江の安土に城を築いたときから茶弁当が始まりました

2019年1月21日 はてなブログ

これまで使っていた“はてなダイアリー”が今月末に終了するんですって。

投稿回数は少ないけど12年間もお世話になってきたのです。

仕方なく“はてなブログ”に移しましたが、いろいろ変ってしまって高齢者には辛いです。

編集画面には、YouTube貼りつけ、Twitter貼りつけ、Instagram貼りつけなんて文字が躍っていていずれも私の範疇外だし。

「時代について行くのは大変」という先輩方の声を耳にしていましたが、その気持ちが理解できる年齢になりました(>_<)