源流茶話

現代語でさらりと読む茶の古典シリーズから「源流茶話」岩田明子著

「源流茶話」が書かれた背景

源流茶話の著作年ははっきりはしませんが、元禄時代(1688~1704)末期か、それから30年の間に書かれたことがわかっています。

著者である藪内家五代家元 不住斎竹心紹智は、この時代の茶風を軽薄の茶風と表現し、利休の大成した茶道を模範とし、そこに普遍的価値をおき、家元としての倫理観を貫き通しました。

この書の著述の意図は利休の正風流(しょうふうりゅう)が異風流に妨げられ、後世に伝わらないことを案じたところにあります。

【上巻】は、茶の伝来・茶湯の始まり・利休が大成した茶道・茶席の法・道具についてのあらまし

【中巻】は、近頃見聞きしたことについての問答

【下巻】は、足利義政・珠光・紹鷗・利休の茶系の略伝とその後に続く茶人の言行
という構成です。

それを現代語でさらりと読む茶の古典シリーズの一冊として、岩田明子氏が纏められました。

 

上巻】の道具についてのあらましのところで、私が以前から気になっていたことが2点書かれていましたので記録しておきます。引用したところはこの文字色で表します。

まず一つ目は『茶通箱』についてです。裏千家の履修科目の中に四ケ伝がありますが、その中の一つが茶通箱という点前です。これは二種の濃茶を同時に同一の客に呈する場合で、不意に濃茶が他より到来した時、自分の用意した茶は勿論この到来した茶も呈したいという場合に行う点前とされており、茶通箱という桐生地でできた箱に茶入と大津袋に入れた棗を入れて点前します。箱自体にはなんの装飾もなく、ただ精巧に作られた桐の箱なのですが、この箱を扱う手に特徴があります。どうしてこのような手の捌きになったのかというところから、茶通箱とはいったいどういう経緯で作られたものなのだろうと思っていたのです。

不住斎竹心紹智の記述は以下のようになっています。

 

現在では、葉茶壺の多くは銀錫になり、だれもが所持していますが、昔は唐物で貴重なものでした。侘人には手の届かないもので、壺がない人は、壺を持っている人に茶箱を通して(渡して)茶をもらっていました。それゆえ茶通箱といいます。茶通箱に大小の茶桶(ちゃおけ)を取り合わせて仕組み、大津袋をかけて両種点にしたのは利休の発案によるものです。

 

だれもが所持している銀錫の葉茶壺とありますが、抹茶の世界ではあまりみかけません。お煎茶の方ではみかけたことがありますが。ともあれ茶通箱は葉茶壺の代替品だったのですね。不意に濃茶が他から到来したときも茶通箱に入って届いたのかもしれません。

 

二つ目は、『香合』のところに記されていたのですが、

不住斎竹心紹智の記述は以下のようになっています。

 

昔は、香合は、唐物の堆朱・堆紅・堆烏(堆黒)・堆漆・沈金・青貝など、和物では、時代切り金・梨地・高蒔絵・研ぎ出しなどがありました。しかし侘人にはできない取り合わせですので、利休は備前信楽・楽・志野焼の香合をも用いられました。

 

ここで利休が用いた備前信楽・楽は納得ですが、志野焼も?

利休様が自刃した1591年(天正19年もう翌年は改元で文禄になりますが)天正年間にはまだ志野焼はなかったと記憶していたのですが、すでにあったということになります。

 

【中巻】近頃見聞きしたことについての問答のところでは、そのころ出回った茶書を批評しています

 

私はかつて、「茶教方鑑」や「和漢茶譜」などという茶書を見ましたが、今の世の軽薄な茶風をただし、茶道の衰えを立ち直らせるものはありませんでした。陸羽の「茶経大全」「茶録」などより抜粋したむだ言で、中国の製茶の法、器具の種類、詩賦は優れていますが、漢文のため誰もがたやすく読めるものではなく、概して見るほどでもありません。このほか、古い草子の「草人木」「古織伝」は初心者のために手を差し伸べたものですので、茶道の究極の境地までは説いていません。

ひところ、藤村庸軒が昔の人の言行を「茶話指月集」と題して、あれこれ古実を集め書きのせましたが、茶の深奥に至らず、出版するとはおろかなことではないでしょうか・・・・・・

 

と手厳しい批評です。

 

【下巻】は、足利義政・珠光・紹鷗・利休の茶系の略伝とその後に続く茶人の言行

この巻の中では珠光が一番弟子である古市播磨に授けた文が一番心に残りました。いわゆる「心の文」と呼ばれるもので、これを現代語でさらりと読めることは大変ありがたいことです。

 

この道において最もよくないことは、我慢我執の心(おごり高ぶる心と執着する心)をもつことです。長年稽古を積んできた巧者を妬んだり、初心者を見下すようなことは大変よくないことです。巧者には近づいて一言でも教えを乞い、謙虚な態度で自分の未熟さを反省し、また努めて初心者が育つように心掛けるべきです。(中略)

また、最近、茶の修業が熟していない初心者が「冷え枯れる」といって、備前信楽などの焼物を用いて、境涯に至っていないにもかかわらず、冷え枯れているかのようによそおい、ひとりよがりな茶湯をしていますが、これは言語道断なことです。(中略)

とはいえ、唐物などよい道具を持てない人は、道具に拘泥してはいけません。手取釜くらいしか持てない場合でも、自分が未熟であることを嘆くという心をもって、巧者に教えを乞い、素直で謙虚な気持ちでひたすら茶湯に向かうことが肝要です。

ただ、我慢我執はよくないことですが、我慢の心から出る我もなければならず、我慢がなくても成立しません。銘道のいましめに「心の師とはなれ、心を師とせざれ」と古人も言われていることです。現在(いま)の自己に安住することなく、より高くより深い境涯に向かって自己を超越していくように。

 

(中略)とあるところは、この「源流茶話」にはもともと記載されていないそうです。竹心が参考にした「心の文」が抜けていたのかどうかは不明だそうです。

冷え枯れているかのようによそおい、ひとりよがりな茶湯とありますが、現代においてもやはり唐物などの名物道具の稽古や台子の稽古は茶の湯の原点でもありますから、おろそかにせず真摯にとりくまねばと思った次第です。

道具に拘泥することなく、巧者に教えを乞い、素直で謙虚な気持ちでひたすら茶湯に向かうことが肝要というところは大変共感できるところで、道具を持てなくても知恵と工夫で補い精進を続けること、それが人を成長させ強くしてくれると信じます。

 

下巻の最後に中国の賢人たちが茶を詠じた詩がいくつか記載されています。そのうちのひとつ唐の蘆同という人が、新茶を送ってくれた友人に宛てた礼状の一部を書き写しておきましょう。喜びが爆発している様子がなんとも可愛らしいからです

 

(略)仁風(めぐみの風)により茶の木は美しいつぼみをつけ、春に先立ち黄金の芽を吹く。その新芽を摘み、焙りすばやく包む。このようにして出来た茶の素晴らしさは最高だが、慎ましやかな茶である。植物の中で最もすばらしいゆえに、皇帝が召し上がるのがふさわしく、その残りも王公たちにこそふさわしい。それがどうしたことか、山中で暮らす私のもとにその茶が届いた。柴門を閉ざして俗客を拒む。黒い絹の帽子で頭を包み心身を整え、その茶を自ら煎じて茶をいただく。碧雲のような湯気は風を呼んで立ち上り、白い花のような泡が光りながら、茶碗の表面に浮かぶ。

一碗飲めば喉吻の乾きがうるおい、二碗飲めば孤独から解放され悩みがなくなる。三碗飲めば精神が活発になり頭の回転がよくなる、四碗飲めば軽く汗が出て不平不満が毛穴から出て行く。五碗飲めば肌から骨まで清らかになり、六碗飲めば仙霊に通じる。七碗はもう飲めない。ただ脇の下から清風が生じるようだ。(略)