2017年8月7日 あるべきよう
図書館から「茶の美-いまに生きる茶のこころ」という淡交ムック1999年版を借りてきました。
巻頭に、坐忘斎お家元様のお母様 千登美子様の一文がありました。
タイトルは「あるべきようの姿」お家元様が、お母様の書かれる文章が大変お好きで、自分はとてもかなわないというようなことを何かに書いておられたのを以前読んだことがあります。
私は、この「あるべきようの姿」というタイトルの一文を何度も読みました。
なぜなら、まず“あるべきようの”という表現を初めて目にし、少し戸惑ったからです。
千登美子様は書かれています。
・茶道は、すべての稽古事と同様に基本がたいせつであり、それをないがしろにしては豊かな意味も深見も味わえず、心のやすらぎにも癒しにも到達しない……これはとてもわかりますね
・お茶が正しく行じられ、お人とたのしく通い合わなくては、ただ単なる意識の遊びにすぎないことになる……これもわかりますね
・いわゆる孤高の精神、すなわち秀れて清かな思惟(さやかなしい)も、存在としての優しい息づきなくしては本来の茶の美ではありますまい……このように感じられる場面をきっと御経験されたのでしょうね
そして結びに利休七則を挙げられ、それこそがあるべきようの姿だとおっしゃっています
広辞苑で“あるべきよう”を調べて見ました。
なんとあの明恵上人(鎌倉時代に唐から戻った栄西から茶の種をもらい、京都栂ノ尾で初めて茶園を作った和尚)が「人は阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)という七文字を持つべきなり」とおっしゃっているのです。
仏教に詳しい方ならご存知の有名な言葉のようです。
“あるべきように”ではなく“あるべきようは”ここに意志の存在を感じます。
どんな場面においても、どんな状況においても、私は「あるべきようは○○だと考えるので、こうこうします」
千登美子様の意味深い一文に魅せられた一日でした。