「山上宗二記」

現代語でさらりと読む茶の古典シリーズから
山上宗二記」  竹内順一著

山上宗二記(やまのうえそうじき)」原本は、利休様の弟子山上宗二(1544~1590)が記しました。私はこの人物に少し興味がありましたので、人となりを調べてみました。以下は裏千家道教科「茶人伝」から。

山上宗二は堺の町人で、山上に住んでいたので、山上を姓とした。早くから利休に茶の湯を学び、25歳の頃には津田宗及一人を招いて茶事を催している。これを評価され、はじめ利休の推挙で秀吉に仕えた後、前田利家、また小田原の北条氏に食客として寄住したこともあった。毒舌家で秀吉にも直言をしてはばからなかったため、1590年小田原の陣中秀吉の命によって耳をそがれ、鼻をそがれて命を落とした。

山上宗二という人は自分を貫き通す実直な性格だったのですね。弟子が斬首された時の利休様はどれだけ辛かったでしょうか。そして翌年利休様も秀吉から死を賜わることになるのですが。

 

 

本の内容は、言ってみれば利休時代の名物道具212点の所在リストで、1588年にまとめられました。名物リストは、桃山時代に頂点を迎えた「侘び茶」の道具観で、宗二の目から見たいわゆる「今の時代」の流行の最先端を行く名物情報です。それを裏付けることとして、「当世」という語が30回も登場します。

 

茶道具は宝物としての価値を有する「名物」と「侘びを立てる茶の湯者」にのみ価値のある「数寄道具」とに峻別する名物観を貫き、また昔から知られた古い名物でも厳然と否定し、「当世」意識に基づき流行の先端を行く茶道具を書き上げました。数ある名物記の中では最も厳しい評価基準が貫かれ、茶の湯者のため、特に初心者のために編纂した書です。

 

 

目利きと目聞(めききとめきき)

目利きはよく使われる語で、美術品を鑑定すること。

それに対して目聞は、真贋の判定ではなく、その道具が茶の湯に適するか否かを
- 形(なり)すなわち形態
- 比(ころ)すなわち大きさ
- 様子(ようす)すなわち全体の印象

という3つの観点から判断すること

山上宗二記とは「目聞」のノウハウを伝える書です。なぜ名物になるのか(反対にならないのか)という理由や根拠を示した名物記は「山上宗二記」のみだそうです

 

 

茶道具リストは「大壺」からはじまり「侘花入」に至る30種 総計212点の名物道具につき、どこの誰が所持しているかという所在情報を箇条書きで列挙し、更に道具観を述べています。

道具観が分かるところを第5章「茶碗の事」から少しだけ抜き書きしてみましょう。

かつてよく使われ名物であった唐茶碗は、すっかり流行遅れになったのである。今流行の最先端の茶碗は、一つは高麗茶碗の類であり、二つは今焼茶碗(今の楽茶碗)、三つは瀬戸茶碗(今の美濃焼系の茶碗か)、この三種に限るといってよい

第22章「墨蹟の次第」からも少し

名物墨蹟の選別の要諦をまとめてみれば、第一に祖師すなわち誰が書いたかである

第二は語すなわち書かれた内容である。その条件としては「様子」がよかったならば数寄道具となるし、同時に評価額も高価である

 

 

リストはすべて文字だけの記載で、

○○の見所などについては文字に書いて示すことはできないので、別途口伝にてお教えしましょう

という表現がいたるところにでてきます

 

利休様は、自分の道具観をまとめた「名物集」を文字に残しませんでしたが、弟子である宗二が書いたこの「山上宗二記」が結果として利休様の道具観を体現する役割を果たしました